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もう「変態酒」と言わない〈盃のあいだ〉

日本酒コンシェルジュ 江口崇 aka Umio 日本酒コンシェルジュ 江口崇 aka Umio

「変態酒」というジャンルがある。いわゆる「きれいな酒」の対局にある酒。一般的な鑑評会の基準では評価しきれない、個性のある酒だ。

オフフレーバーがバランスよく調和していたり、酸味が突出していたり、精米していなかったり、麹ではなく発芽した芽にある酵素を使って糖化したり(ビールみたいだ!)。こんな、香味や醸造法の個性が炸裂している酒を、僕たちは「変態酒」と褒める。

その「変態性」に心を奪われ、ついにはその蔵元を訪問したりするのだが、いつも驚くことがある。彼らは共通して「普通」なのだ。普通に米に向き合い、水に向き合い、素直に酒を造っている。だれも、突飛なことをしてやろうとは思っていない。ただ、自分の信じる酒を造っているのだ。

縮小していくアルコール市場の中で、「個性を出すこと」は生き残る上で必要なこと。その中で「自分たちの造る酒はどんな酒なのか」を自ら問い、考え抜いている。与えられた環境、米、水、微生物に真摯に向き合い「自分たちの酒」を造っているのだ。

これは、「変人」を例に出すとわかりやすいだろう。変人と言われる人は皆、普通に生きている。決して「変人になりたい、変人になるには何をすればよいか」と問いながら生きているのではない。真摯に、素直に生きることがその人の個性を研ぎ澄まさせ、「変人性」を作り出すのだ。このような変人性、つまり個性は心に響く。生き様が人の心に届く。

ときに、「変人に見られたい」と思って突飛なことをする人がいるが、それが許されるのは思春期まで。大人になってそんなことをしているのは、ただの馬鹿だ。その偽りの変人性は誰の心にも残らない。

僕が思う「変態酒」は、無垢でピュアで真剣に生きている「変人」と同じなのだ。まっすぐ生きているからこそ、唯一無二の個性が発揮される。

「変態酒」という言葉はもう使わないほうがいいのかもしれない。変態酒を造っている蔵元さん、杜氏さんたちと話し、彼らの酒に対する姿勢を受け止めてから、「褒め言葉としての」という枕を付けたとしても、傷つける言葉なのではないかと考えるようになった。

だから、その酒の個性については大いに語るけれど、「変態酒」という言葉はもう使わないでおこう。

きょうも日本酒コンシェルジュ通信にきてくださり、ありがとうございます。酒の個性に乾杯!